日本教育史上最大の悲劇 朝鮮半島出身者は数えず ヒロシマの語り部(上)(47NEWS)
広島市の中心部を東西に貫く幅100㍍の道路がある。平和大通りと呼ばれる。濃い緑に覆われた緑地帯には原爆慰霊碑やモニュメントが散在する。学校関係の碑もあるのは、8月6日にここが少年少女たちの墓場になったからだ。
1945年8月、広島では防火帯作りを急いでいた。強制的に住民を立ち退かせ、家を引き倒し空き地にするのだ。
壊した家の残骸を片付けるために動員されたのが広島市内の国民学校高等科、女学校、中学校の生徒たち。炎天下、約5000人が働いていた。その頭上に原爆が投下され、ほとんどが爆死するか重症を負った。
県立第二高等女学校2年生だった関千枝子さんは、その日おなかをこわして学校を休んだため死なずにすんだ。作業に出ていたクラスメート39人のうち生還したのは1人だけ。
戦後、新聞記者になったが、生き残ってすまないという気持ちがつきまとった。
それを前向きに変えるには、事実を明らかにして記録することだと思い至り、級友全員の死までの足どりを求めて遺族を訪ね歩く。1985年、ノンフィクション『広島第二県女二年西組』としてまとめた。
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